小説の実写化に対する苦手意識
私は小説を読むことがとても好きなのですが、いわゆる「実写化」というものに対して苦手意識を強く持っていました。
思い入れが強い作品であればあるほど、その気持ちは強くなります。
本屋で不意に大好きな作品の帯に「実写化」と書かれているのを見た瞬間、とてつもないショックを受けることもしばしば……。
しかし、なぜそんなに苦手意識を持っているのか、その理由を深く考えることはありませんでした。
自分の想像を形にされることが苦手だった
今回「好きな言葉」というテーマを設けて記事を書くことになり、ふとこの苦手意識について思い出しました。
そして私は気づきました。「自分の想像を形にされること」が苦手だということ。
想像していた見た目が視覚化され、表現されてしまうことが自分の想像に壁を作るような気がしていたのです。
それからのこと、私が大切にしていた想像などの漠然とした存在を「余白」と呼ぶようになりました。
「余白」と言われて浮かぶのは?
みなさん、「余白」と言われて何が浮かびますか?
何かの空白とか、ノートの端とか、真っ白とかでしょうか。
私が考える「余白」は先ほど話したように想像や広がりなどの非常に曖昧なものです。
アートや、小説などは答えが一つではなく、あるいは答えすらなくて、その人が抱いた感情・考え方を受け入れてくれるような気がします。
こういった、人それぞれ違う感情を抱くことこそ私は大切にしていきたい。
そうすることで他人の「余白」も尊重できるのではないかと考えるようになりました。
ひとりの世界じゃないことを証明する言葉
私にとって想像や広がりを持つ「余白」は、世界で存在がひとりでないことを証明する言葉だと思います。
余白なく、全てに一つの回答が与えられた世界で、全員がそれを正解だと感じられるなら個性も生まれませんし、アートもクリエィティブもないような気がします。
例えば何か同じものを見ていたとしても、見ている部分が違ったり、そこからの感じ方が違ったりということがあるかもしれません。
何か違う意見を持った人と話すときに、その意見を否定するのではなく、人それぞれの感じ方の違いを受け入れることで違う世界を見てみる、そんな余白のある生活も楽しいのではないでしょうか?