わたしは劣等感の塊で、つねに他人を見ては自分をたいへんくだらないもの、というふうに考えてしまうのです。
特に、このコロナ禍でわたしの劣等感はいよいよ高まっていくように感じます。わたしにとって最も忌々しいもの……そうです、おうち時間です。
わたしはあのおうち時間というタグをつけられた投稿を見るたびに、この人の家での素敵な過ごし方に比べ、自分は一体家で何をしているのか、考えてしまうのです。
朝といえるかどうかも半端な時間になんとなく起き、適当なごはんを食べ、なんとなく昼寝をし、気づいたら何もしないまま夜を迎えてしまう。
みなさんも経験ないでしょうか。
そうしてやっと無気力から少し脱しただけの半端なやる気を、おうち時間に費やしてしまうのです。
少し、少し見栄を張るようにして、まるで自分自身に自分も素敵なおうち時間を過ごせているのだ、と言い聞かせるようにして、SNSでおうち時間とうたった写真を投稿したりするのです。
そのうちにおうち時間の快感を覚えたわたしは、二度とあのような何もしない素敵じゃない生活に戻るまい、と素敵を過ごすように奮闘するのです。
この文章を読んであなたはどう感じましたか。
これは紛れもなくわたし自身のことですが、わたしのしていることは全然素敵じゃないし、すばらしくない、と感じた人がきっといると思います。
わたしのようにおうち時間、といって例えばお菓子を作ったり、紅茶を片手に読書をしたりしている人が、もしわたしのように見栄を張ってがんばっているだけだったら……と考えてみると、別に素敵な生活を無理に送る必要なんてないのだ、と感じるかもしれないですね。素敵はつくるものではないのです。
劣等感とは
冒頭に述べたわたしの行動や感情は、劣等感から生まれたものです。
ここでは劣等感、というものについて触れていきたいと思います。
広辞苑には劣等感とは、自分が他人より劣っている感情、というふうに書いてあります。
あなたは劣等感という言葉にどのようなイメージを持っていますか。
劣等感という言葉が使われるとき、少し負のイメージがあるようにわたしは思います。
一方で心理学者のアドラーは、劣等感を、マイナスの境遇からプラスへ向かおうとする無意識、というふうに定義しています。またアドラーは劣等感についてこうも言っています。
“劣等感は誰でも持っている。それは健全な向上からはじまる”
つまり、アドラーは劣等感とはある種の向上心だと言っているのです。
一方でアドラーは劣等感には二種類あり、良い劣等感と悪い劣等感とがあるとも言ってます。
アドラーが言ういい劣等感は「理想の自分」から生まれ、悪い劣等感は「他人との比較」から生まれるそうです。
人の考え方にいい悪いを判別するのはどうかと思いますが、「他人との比較」から生まれる劣等感はかなり心をいためてしまうものとも思います。
他者との比較で生まれる劣等感
自分と他人とを比較して生まれてしまう弊害として、他人の存在が大きくなりすぎてしまうことがあります。
ああ、あの人は自分よりもこんなすごいところがある、それに比べて自分など……とずっと考えてしまうと、自分の中で他人がどんどんすごいすごい存在に思えて、本来のその人の姿よりずっとすごい姿を心に描いてしまうのです。
つまりは、他人を等身大に見ることができなくなってしまって、自分よりもとても大きな存在だと思い込んでしまうのです。
本当はその人にも欠点が存在して、自分にはその人と違ったいい部分があるかもしれないのに、他人が大きな存在になりすぎると、自分の視野が狭くなって、自分も他人も見えなくなっていきます。
これを防ぐことはかなり難しいことだと思います。
しかし、自分も他人も、少し遠くから眺めてみるような感覚をおぼえることで、劣等感というものは薄まっていくのかもしれません。
自分と他人とを切り離す
そんな、自分も他人も切り離して考えられるようなことばを紹介します。
“私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。”
フレデリック・サロモン・パールズ(Frederick Salomon Perls)
パールズの詩より
これはゲシュタルト療法という心理療法において、その思想をかたちにした詩のことばです。
ゲシュタルト療法は、過去や未来について考えるのではなく、あくまで今の等身大の自分を見つめることで、自分という存在を捉えなおす心理療法です。
自分を見つめなおすためには、自分と他人とはそれぞれ独立した存在であると意識することが大事なのかもしれません。
そして、他人にもいいところがあり、自分にも他人とは違ったいいところがあると認めてあげたいですね。
このことばが自分と他人とを見つめなおすキッカケになってくれればと思います。